幸せなお母さんと子どもの気持ちのいい関係

—–子どもの言い分=「何かのせい誰かのせいにしたいは、自分を守りたいから」—-

幼児の部のこどものフェスティバルを開催しました。友達と一緒に発表を楽しめるようにと願った3歳児から、自分の役割りを理解し目標に向かって取り組みを続ける5歳児の成長の姿を見て欲しいのです。昨日より今日、今日より明日と変化する子ども達です。そういう自分と友達の変化に気づき、それを喜びあえるようになるそら組のすがたに気づいてほしいと思います。5歳児は、上手だったらいいというのではなく、友達と同じ目標に向かって取り組めるようになってほしいのです。ほとんどの人々が決まりを守るのも、みんなが暮らしよい社会にしたいからですよね。自分一人ぐらい守らなくてもいいという人がいたら、この社会は良くなりません。幼児教育というのは、様々な体験を通して社会人としての基礎をつくることなのです。他人と関わるのが上手くできないと、この基礎作りができないのです。「できる」「できない」にこだわっていると、子どもの心の成長が曲がってしまい道を外れてしまいます。

無関係な人を巻き込む最近の事件に心が痛みます。あの人たちはいつ方向を間違えたのだろうか、思い通りにならないことを乗り越えることができず、何かのせい、誰かのせいにしてしまうのは今の子ども達も一緒です。保護者の方は、教育現場のいじめも心配されているようです。文科省が新しい「いじめの指針」を示していますが、「された相手が不快に感じたら、それはいじめである」と言っています。子ども達は自分の思い通りにならない時、相手と同じ気持ちになれなかったとき、「もう遊ばない」といい、一方は「仲間に入れてくれない」と保育者に告げ口する。これだって不快な言葉を言い合っているから「いじめ」ということになります。一方が「ブタ!」と言ったので、「短足」と言い返した。これもいじめです。子どもの世界にはよくある光景です。いじめの被害者と加害者が交互に入れ替わりながらいじめがくり返されているのが現実です。児童クラブでも、「僕の物を黙って使って壊した」と怒り、「だって○○が触っていいと言ったもん」と謝らず、さらに「ちょっとくらいいいがね」と言う。すると、腹を立てた一方がつい手を挙げてしまう。このような事があります。どちらも相手が悪いと言っているだけで、そうならないためにはどうすればよいかを考えようとしません。家に帰ると、自分が被害者だと話すわけです。その前後の色々はほぼ省略。こども園の子どももこの繰り返しです。こんな時、親が裁判官に変身すると、子どもは引っ込みがつかずに、話の着色が始まります。「そんなことを言ったの、それは誰?」「だってあなたは何も悪いことはしてないのに」とくると、もう引っ込みがつかなくなって、着色はもっと念入りに、自分の不利な所は絶対にしゃべりません。相槌を打つ程度で、とにかく「そうだったの」「それはイヤだったね」と、親が気持ちを受け止めてあげると、「でも、ぼくね こんなことして…」と話し始めます。本当は、落ち込んだ気持ちを軽くしたかったというのは、よくあることです。子どもが嘘を言ったと思わないで、親が根掘り葉掘り聞くと、つい作り話になってしまいます。親に関心を持ってほしい気持ちの表れなのですよ。